12月11日は、大雨で始まり、午前のうちに急速に晴れ上がり、冬とは思えない暖かな日和になりました。
空は青く、心地よい風が時に強く、時に清々しく通り抜け、心洗われるようでした。
そんな印象深い日...母は旅立って行きました。 今はただ、 ありがとう、どうぞ安らかに それだけです。 今後おそらく、いろいろな思い出とともに、綴っておきたい話が出てくることでしょう。 思いつく度に少しずつ、この場に記していこうと思います。 きっと喜んでくれるでしょう。 2015年12月14日
お別れ会(音楽葬)で設けた追悼コーナーの一部・・・母はピアニストでしたが、コントラバスの奏者でもありました。(額の中のチラシは、コントラバスのソロ演奏会のもの)
2016年正月、上野公園界隈を散策。東京文化会館には幼い頃に度々連れてきてもらい、精養軒でよく食事をしました。子どもながらに「チャップスイ」が好物で、そればかり。とろっとした感じが好きだったのです。
幼稚園の頃は、児童向けの○○全集などの付録で、いろいろなレコードを持っていましたが、いわゆる「流行歌」で買ってもらったレコードはこれが最初。「およげ!たいやきくん」は、映像でもよく見ましたし、レコードもよく聴きました。
仮面ライダーやゴレンジャーなど、ヒーローものの番組が全盛の中、「ロボコン」は異色でした。超合金の玩具については、ロボットアニメのものが中心だったため、「ロボコン」に出てくるロボットの超合金というのは、やはりちょっと変り種。川越に暮らしていた頃、東武東上線で寄居に出かけ、町の玩具店でこの「ロボピン」(易者ロボット)を買ってもらいました。番組での設定同様、パチンコができるようになっていて、よく遊んだものです。(ロボコンも一緒に買ってもらいましたが、そっちは同級生が遊びに来た際に、付属品のハートのシールなどをあちこちに貼られてしまい、玩具というよりは装飾品のようになってしまったのでした。)
藤沢から日暮里に行く機会があり、どういう経路で行くかをまず話し合いました。母は小田急と山手線を提案。こちらは、東海道線で行くのが素直だろうと説き、そのルートで行きました。国鉄(当時)は高いから、というのが母の言い分でした。当時、小田急経由の方は、全区間国鉄の場合の半分くらいだったと記憶しています。
小学校に入る前、母、祖母を含む四人で、品川〜三崎口を往復する日帰り旅に行きました。初めての京急、初めての快特、今でもいろいろと思い出します。城ヶ崎海岸や油壷も行きましたが、印象に残っているのは、やはり電車での道中。鉄道好きな息子のために機会をつくってくれたのだと思います。
小学校低学年の2年間は、川越で暮らしていました。居所の周辺は、田圃が広がっていて、道路も至ってローカル。家の前の道は、一応舗装されていましたが、道を外れれば水路や水田という状況でした。ある日、その危なっかしい道を使って、自転車に乗る練習を母としました。コントラバスで鍛えた自慢の腕力の後押しもあって、バランスをとることに成功。自転車はなくてはならないものとなりました。
1980年代半ばの5年間は、大阪と京都の境界に近い場所で暮らしました。最寄駅は京阪電車の樟葉。最寄りと言っても、家から駅までは結構な距離があったので、高校時代は車で迎えに来てもらうこと多々でした。駅や周辺の商業施設はリニューアルしましたが、ロータリーの構造は当時と変わらず。ここでは今も、自家用車での送迎シーンが見られます。
左の額は、貴重な写真を集めたもので、よく話を聞かされました。コントラバスを弾く外国人奏者は、母の恩師、クレップ先生(ウィーン)です。