第98話 ちょっと待てよ、と思うこと(2001.10.1)
たまには硬めの話をしようと思う。これまで電車内のマナー、駅構内のマナーなどで書き綴ったが、社会性を身に付けることを目的として活動しているグループ(少年スポーツチーム、ボーイスカウト・ガールスカウト...)がマナー違反を冒すケースは、警官の交通違反、銀行員の着服・横領、病院での医療過誤等々、その人の職務上、最も忠実であるべきものに背く行為に通じる部分があり、決して軽視されてはいけないものを感じる。薬害エイズやここ半月間の狂牛病の対応なども職務の本来性に照らし合わせれば、起こり得ない事件だろう。
何に忠実であるべきか、が問われる事象が増えているようだ。だが、生活上あらゆる場面において忠実さを保ち続けるのは難しいのも事実。ならばせめて、その道・その世界に生きている(という自負がある)人であれば、そこで求められる本来の道理に背くことだけは避けてほしいものである。それは上述した警官・行員・医者に限らず、例えば次のようなことも例外ではないだろう。
環境問題を日頃説いて回っている人が、ゴミの分別がろくにできていなかったり、実は酒宴が大好きで、食べ残し・飲み残し放題だったり、平気でクルマを乗り回していたり、タバコをスパスパやってたり、恰好がやたら派手・華美だったり... この人は環境の世界で貢献することが目的なのでなく、酒・タバコやクルマや派手な振る舞いが好きなだけで、それができるならどんな仕事でも分野でも良かったのではないか、と訝ってしまうのである。
加えて、
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クリーンアップイベントで、ゴミが多く出る弁当や飲料を配ってしまう主催者
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環境問題に関する講演会に来る時、帰る時、主催者にクルマでの送迎を強要する講師
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社会学や道徳に関する本を図書館から借りて、その本にマーキングしたり、ページを破ってしまったり... この人は何を学ぼうとしているのか?
といったことも看過できない。 |
本来忠実であるべきものについ背いてしまう人がいる一方、そうでない人ももちろんいる。忠実であり続けたことで高潔かつ高名になった人はいくらでもいる。だが、その道、その分野で著名であるという人がいたら、その背景には専門性よりは、その人自身の特性、例えば「信念が堅い」「ひたむきである」「粘り強い」「声が大きい」「人を押しのける強引さがある」といった要素が大きく、そういう特性を持った人はどんな分野であれ頭角を顕す(良かれ悪しかれ)のではないか、と思うのである。世の中、様々な業界・職域があるが、それを構成する人々の特性・個性は常に一定、つまり、声の大きい人・小さい人、人が好きな人・キライな人、わがままな人・謙虚な人、利己的な人・利他的な人、はどんな世界にも必ず存在する、ということが言えるのではないか。
環境問題に関わる人々の中にも、それら一定の構成比があるようで、この人は目立ちたくて環境問題に取り組んでいるのでは? と疑問を持たざるを得ない人がいるのも事実である。(環境問題に取り組む人が全て温和で地道、ということは決してない。) 虚栄心・功名心のある人はどこにでもいる。その人はどの分野であってもきっと同じ振る舞いになるだろう。ただ、環境問題への取り組みでは、それはアダになるように思えてならない。その人の名前が問題なのではなく、誰も彼もなく、一人の人間として何に貢献できるか、が問われるだけであり、そこには虚栄も功名もなく、人間であるなら自発的に、かつ黙々と取り組み続ける必要があるからである。自分の名前を売るのを目的とする取り組み程、空疎なものはない。自分が良かれ、と思うことを各自の忠実さに照らし合わせてひたすら行動するのみである。結果としての頭角、を望みたいものだ。
話変わって...
21世紀に入って1年経たないのに、実にいろいろなことが起きている。「東京モノローグ」ではあまり政治的なこと・世界情勢的なことを書くつもりはないが、先の米国同時多発テロでは考えさせられることが多かった。
テロ報復戦争の兆候に端を発し、好戦派と反戦派それぞれの動きも顕在化してきたようだ。いささか短絡的だが、
好戦=米国(市場経済)賛同=グローバリズム
反戦=米国(市場経済)否定=反グローバリズム
という精神的背景があるとしたら、戦争をきっかけにグローバリズムの是非も問われること必至である。もちろん、グローバリズムは支持するが戦争には反対、という態度も尊重されて然るべきだろう。だが仮に米国へのテロはグローバリズムへの反旗、そのテロへの報復は反グローバリズムに対する抗戦、という縮図が成り立つなら、グローバリズム支持と戦争反対は両立しなくなる。
環境保護運動でめざすものが各団体で異なるのは言うまでもない。だが、環境保護の原点には、
・単に自然保護をめざすもの
・実は反資本主義*・反グローバリズムの流れを汲むもの
*反資本主義という表現は極端だが、概括すると「自由経済と言いながら、実体は放縦経済・自己益経済」「お金が本当にイイものに使われず、悪いものや特定の私利に流れてしまう。つまりお金の使い方に心や倫理がない」そんな状態だろうか。これが起因して環境問題をはじめとする社会問題が起こっているのではないか、と筆者は常々感じている。
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に分かれる可能性がある。事実、環境団体の一部には、今回のテロ報復を憂慮して戦争反対を唱え出しているところもある。こうした環境団体について考えを巡らすと、
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ふだんの運動の中にも反資本主義・反グローバリズムを内在させている、または標榜している
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戦争になってしまえば、環境保護などと言っていられなくなるため、自らの運動を守る上でも戦争反対を唱えている
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環境運動と平和運動は同軸と捉え、戦争になれば環境破壊も進むし、温暖化にも拍車がかかるため、反対している(環境運動を戦争阻止に結び付けることを忠実に考えている)
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といった類型があるのではないか、と思い至った。だとしたら、これまでの環境運動と戦争反対との接点を伝えるべき、と思う。なぜ戦争反対なのか、をきちんと伝えず、単に先頭に立ってスタンドプレイしたいだけならやめてほしい。それは先述した虚栄・功名を目的とした取り組み、と同じに映るからである。
こうした態度表明は環境団体だけでなく、実は各企業、各自治体、各個人にも問われているように思う。個人が日常の生活や取り組みと戦争への賛否との関係を真剣に考えた時、そこには組織の建前(例えば、グローバリズム賛成・戦争反対といった表面的平和主義)と個人の本音が対峙する可能性がある。その本音が尊重された時、何かが変わる21世紀になると思うのだが...
余談だが、筆者の勤務先では、社長コメントも自社としての今後の中長期的な危機管理方針などの発表もなく、当然のことながら、テロ報復をどう考えるか、世界平和に貢献できることはないか、といった普遍的な話題も出てこないようだ。日本企業の典型なのかも知れないが、実に不思議に思う。
《おまけ》「ちょっと待てよ」と思うこと(番外編)
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ホームページのリンクを依頼しながら、リンクしてほしいホームページアドレスを書き忘れてしまう依頼者
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イベントの案内・参加募集を出しながら、「いつ・どこで・だれが・いくら...」といった5W1Hが不完全
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日頃、節電・省エネなどを説く人の書いたEメールが深夜の発信時刻で届く!
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Eメールも積もれば、PCの容量にインパクトが出る。大きなファイルを平気で添付したり、メール形式をテキストでなくHTMLのままにしている人は、送った先のPC容量の心配もしてほしいところである。(Eメールの環境負荷はあまり意識されないが、結構大きいかも知れない。環境系メーリングリストにご参加の皆さん、お互い注意しましょう。)
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