第146話 同潤会アパート(2003.10.1)
戦前戦後、つまり昭和という一時代をそのまま体現してきた建物の代表格と言える同潤会アパート。都市型住宅の原型として歴史的価値が認められていたものも多い。その一つ、表参道(渋谷区神宮前と港区北青山の区境周辺)の景観を象徴する存在だった同潤会青山アパート(渋谷区神宮前4-12)がついに歴史を閉じ、解体工事を終えた。今はもう跡形もない。筆者の青山勤務が終わったのと同じ時期に解体が始まったので、これも何かのご縁と思っている。(同潤会アパートの75年に比べ、こちらは僅か3.5年だが。) |
東京百景(第100話)の014、015でも同潤会アパートを載せたが、その後も定期的に撮りだめしていた。ほぼ1年前の10月15日、同潤会アパートを見渡すのにちょうどよい喫茶店でモーニングセットをとりながら撮影したのがこの写真。(↓)
取り壊されるのは知っていたので、間に合って良かったという思いで撮った。(この写真はお気に入りなので、筆者PCのデスクトップ画像としてずっと使っている。) この光景が気に入って来店する客も多かっただろうに、今でもこの喫茶店、健在だろうか。
さて、同潤会は1924年(大正13年)、関東大震災後に全国から寄せられた義援金をもとに設立された財団法人。初の公的住宅供給機関で、事業目的は関東大震災の復興や不良住宅解消のための住宅建設だったとか。耐震耐火性の鉄筋コンクリート造りのアパート建設は1925年に開始。事業を終えた1941年(昭和16年)までに、東京、横浜の16箇所に計108棟を建設したというからスゴイ。
同潤会青山アパートは、1927年(昭和2年)に完成。電気、ガス、水道のほか水洗トイレやダストシュートなどの最新設備を誇っていた。すでに今から30年に建て替えが必要とされていたが、居住者との折り合いがつかず、75年以上経ったところでようやく建て替えが始まった。8年にわたる協議を経た上で行われる今回の建て替え。建物の老朽化が指摘されつつも、景観としての価値が重んじられていたため、歳月を要したが、歴史的景観の存廃をめぐって、何かとトラブルが絶えない日本にあって、こうした地道な協議は範となるだろう。
神宮前4丁目地区の再開発事業として位置づけられ、解体後は、約6000uの敷地と一部の住戸を所有する森ビルが住居兼商業ビルを建設する。総工費は約170億円。再開発組合の計画概要では、住宅は西棟が地上3〜4階、東棟が地上4〜6階。店舗は地下3階〜地上3階となっている。施設の特徴としては、
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住居環境の特徴は、喧騒からの距離と日照を確保できる施設上層部に住宅を配置すること。
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商業空間は店舗階の半分が地下に埋設されているが、中央の吹き抜けによって地下3階まで自然光を取り入れることができる。この吹き抜けに面して、表参道の坂道と同じ勾配のスパイラル状のスロープを取り入れ、変化と発見にあふれたにぎわいを演出する。
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景観・街並みとの調和を重視し、地上の高さを5階建て(住宅の一部6階)に設定。ケヤキ並木のスケールと調和した、落ち着きのある街並みをつくりだす。
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外構と屋上を緑化し、明治神宮から表参道へと続くケヤキ並木と一体となる緑あふれる環境をつくりだす。
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とのことだ。(詳しくは「同潤会青山アパート再生」にて)
鉄骨鉄筋コンクリート造りだが、同潤会アパートの一部を復元再生することになっている。また、建物を表参道の並木を超えない高さにとどめる、という点もポイントだろう。(高さを抑える分、地下は何と6階まで掘る計画) 丸の内、品川、六本木などで巨大ビルが続々と立ち上がり、地域の歴史的景観が失われていく中、その街が持つたたずまいや雰囲気を尊重しようとするこの再開発事業は手本となる面が多い。屋上庭園以外に、どの程度の環境配慮がなされるかは明らかではないが、2005年の完成まで、見守っていきたいところだ。
流行発信地としてのステイタスが大きいが、表参道は都内有数の美観地区でもある。海外のスーパーブランド(グッチ、アルマーニ、シャネル、ルイ・ヴィトン、etc.)が進出するのも、表参道が持つ歴史的景観の美しさがあってのことと言う。パチンコ店や風俗店を出店させない規制条例を設けたり、地元挙げての清掃活動を日常的に展開したり、景観が保たれているのは、地域を大事にする意識の高い住民や商店街による努力あってのこと。そうした地域意識を支えてきた同潤会アパートがなくなったことで、それに代わるシンボルがどう変わっていくのかも見どころだろう。(地震国だから仕方ないとは言え、ヨーロッパみたいに古い街並が維持できないのは何故なのか、どうも釈然としない筆者である。)
さて、ご存じの通り、同潤会アパートは青山が全てではない。青山アパートがなくなったことで、現役は三ノ輪と上野下の2ヶ所を残すのみとなったが、取り壊される前のものについて、筆者も少なからず記憶・記録はある。ここに紹介しよう。
代官山が持つオシャレ感や風情は同潤会アパートがもたらしたものと言っていいだろう。今では代官山アドレスなる巨大ビルが偉容を成しているが、同潤会アパートほどの象徴性はないような気がする。かつて当地に広がっていたアパートは、代官山の良さを集約したような存在だった。そしてそのアパート内にあった「代官山食堂」ほど、古さと善良さを兼ね備えた場所はなかったのではなかろうか。都内の定食屋ガイドのような本を携えた一人の学生は、この食堂を探し当て、タイムスリップしたような感覚を味わいながら、500円そこそこの焼魚定食を玩味したのであった。柱時計、木製の長テーブル、アンティークな吊り照明、どれもよく憶えている。今思うと、このアパートが消えてから、代官山界隈の落書きが酷くなっていったような... 落書きは、その地域への愛着を維持するものがないと頻発する。これは筆者流の仮説である。
清洲橋通りと三ツ目通りが交差する辺りにあったんだそうな。1996年の5月下旬だったと思うが、いわゆる歩け歩け大会のようなイベントでこの界隈を通った際、やけにシックな建物があるなぁと思って、何枚か写真を撮ったのを覚えている。同潤会アパートだと知ったのは、取り壊された後の話。もっと堪能しておくんだった。
営団銀座線に乗れば、稲荷町駅からすぐなのだが、都バス愛好家の筆者は京成上野駅近くから南千住駅行きに乗って、東上野六で下車して同地に向かった。上野下(正:うえのした、誤:かみのげ)という何とも言えない名称のアパートは、今なお現役であることの誇りを感じると同時に、ここだけ異界のような情景を演出していた。この際、洗濯物の干し方がどうのとは言わない。それも含めて"同潤会アパートここにあり"なのである。4階建が2棟。敷地内には井戸がある。 |
荒川クリーンエイド・フォーラムのN代表がこの界隈に長く住まわれている。ある日ご本人直々にご案内いただいた。仄暗い中で撮影したアパートは何とも幻想的。井戸があるかどうかは不明だが、上野下同様、4階建×2棟である。鉄筋が爆裂して露わになっているのが痛々しい。 |
■おまけ...(アパートではないけれど)
9月27日、荒川クリーンエイド2003の説明会を荒川知水資料館で開催したが、分館に向かう途中、資料館本館2Fの一角に「北区の絵地図」(北区史を考える会)を発見。赤羽界隈の1枚をよく見ると、何と赤羽西地区に「同潤会住宅群」と記されているではないか。同潤会はアパートだけではなかったことを知ると同時に、近所に同潤会の名残があることがわかり、喜々とする筆者だった。
善は急げとばかり、9月30日、この目で確かめることにした。古地図をもとに、赤羽西3丁目&西が丘1丁目をめざす。赤羽に住んで7.5年が経つが、恥ずかしながらこの一帯は初めての訪問。(赤羽西2丁目・4丁目は何度か周回しているのだが、3丁目はどうも隔てるものがあったようだ。) 不覚にも現在の詳細地図を持ち合わせていなかったので、現地の街区案内看板が頼り。そうかこの格子状に区画整理されているのが分譲宅地か。風は強かったが、実に秋らしい爽やかな気候の中、西が丘の高台をめざし、自転車を駆る。ちと遠回りになってしまったが、赤羽西3丁目からのルートは正解だった。稲付公園といい、鳳生寺坂(地図+部分)といい、実に趣深い。
坂を上り詰めてしばらく行くと、そこは確かに別格の住宅地。格子状の住宅街と言えば、筆者にはお馴染みの成城がまず思い浮かぶが、ここも成城同様、並木もあるし、静穏。小成城とも言うべき佇まいである。(さすがは同潤会ブランド!) さて、肝心の現存する戸建住宅はどこにあるのだろうか。その筋の本によると3軒を残すのみとある。筆者が見て廻った中では5軒ほど木造住宅が見つかったが、おそらく1925年当時のままという意味では3軒なのだろう。いずれにしても、瀟洒な邸宅の合間にあって益々存在感・重厚感ともに大きい木造住宅なのであった。往時はさぞ美観を誇っていたことだろう。まだ行ったことはないが、本駒込の大和郷も似たような感じなのだろうか。
ここもアパートではなく、分譲住宅があったようだ。荒川クリーンエイドの事務局が東小松川にあるので、途中、付近のバス案内を見ることもある。そこに「同潤会」というバス停があることを見つけてしまった筆者は、事務局は後回しにして、いつもと違うバスに乗って同地をめざした。降りてすぐ、同潤会医院というのは見つけたが、残念ながらアパートは不明。(それもその筈...) 今度機会があったら、分譲住宅を探してみることにしよう。 |