第325話 東京 震度5+(2011.3.14)
時間が経ってからがいいか、記憶の新しいうちがいいか、悩ましいところだったが、早めに綴ることにした。東京の震度5強、の件である。
3月11日の早朝、近所のカラス集団が妙な啼き声で騒いでいたのは、今回の予兆だったんだと改めて思う。そして半蔵門の事務所に向かうのに、第323話の逆コースであえて徒歩にしたのは、自分なりに何か予期するところあって、そうしたのかも知れないと思ったりもする。
東京駅の丸の内南口を出て、日比谷通り〜馬場先門〜皇居前広場と経由して祝田橋を渡り、あとは第323話の逆。皇居ランナーは朝も多いこと、桜田濠にはカモの類が結構浮かんでいること、国会議事堂から最高裁判所の前にかけての勾配がそれなりにあること、など今にして思えば悠長に検証していたものだと思う。
楠公像があるこの広場、20年ぶりくらいか初めてか、という場所である(これが下見になるとは思いも寄らなかった) |
この位置から国会議事堂が見えるようになる |
カモは地震を察知していたかどうか... |
朝なら花粉は少ないだろうから、というのは見当違いも甚だしい。花粉にグズグズやりながらの歩行は自ずと遅くなる。東京から半蔵門まで35分ほどの往路となった。
この日はその瞬間まで至っていつも通り。複数の市民団体が入るビルの2階には、筆者を含めて10人いたが、その人数がいつもより少ない・・・違いと言えばその程度である。だが、明らかな違い、否、人の一生の中でそうそう遭遇することのない出来事がこの日は起きた。
隣席では青森県の某自治体の議会事務局と電話がつながっていた。大きな揺れは青森の方が先、それが早期警戒のような形になった。青森側が電話を切るか切らないかのうちに、こっちも揺れ出した。しばらくは初期微動のような感じだったが、誰からともなく声を掛け合い、階下へ急ぐ。大揺れの階段をとにかく皆で下りるも、息つく暇が全くない。外に出てもなお収まる気配はなく、さらに激しさを増し、それが何秒も続く。窓ガラスが落下する危険性がない場所は限られている。せいぜい平面駐車場の前くらいである。それでも電柱や建物が倒れてくればどこに居ても同じようなもの。この無力感と恐怖と言ったら、なかった。
一時はどうなることかと思ったが、震度が6までは行かなかったのがせめてもの救い。ギリギリで助かった、今はそう思う。
一旦事務所に戻ったが、直後は散乱状態だった。速やかに避難してなかったら、本棚や書物の犠牲になっていた人がいたかも知れない。通路を確保すべく落ちてきた本を片付けたり、手荷物の無事の確認などをしていたら、また大きいのが来た。30分後のことである。
今度はデジカメを持って出た。そして少しでも揺れの様子を記録しようと試みた。その時の動画がこれである。
14:46からの数分間は本当に長かったが、この15:17はそれよりは短かった。だが、こうして記録できたということは、やはり一定の長さはあったことになる。「こうした揺れがまだ何度も?」、そう思った時の何ともやりきれない気分は今後も記憶に残るだろうし、むしろしっかり刻み付けておいた方がいいだろうと思う。
倒壊は免れたが、外壁は損壊。近所のビルではこうしたケースや、ヒビも見かけた。 |
半蔵門は開かない(15:40) |
余震が来るのがわかった以上、ひとまず周囲や上空が開けている場所に避難するのが賢明だろう。10人の一行は、皇居方面、即ち半蔵門をめざすことにした。麹町界隈の昼間人口が多いことは百も承知。半蔵門周辺には、ヘルメットの有無の違いはあれど、とにかく大勢のオフィスワーカーが集結し、何らかの指示や放送を待っているような雰囲気があった。
当然のように半蔵門が開くことはない。「皇居前広場へ」というアナウンスが繰り返されるだけである。千代田区の広報車が来るも、切迫感はなく、それをかき消すように消防車が緊張感たっぷりに通り過ぎていく。人が多い分には安心感はあるが、広域避難にならない以上、長居は無用。ひとまず16時を以って自主解散ということにし、ともに無事を祈り、その場を後にした。ここから先は長い帰路になる。画像+キャプションを中心に綴ることにする。(直接的な被害に遭われた方々には心よりお悔やみ、お見舞い申し上げます。)
1.半蔵門〜皇居前広場〜東京駅
往路とは何もかも一転してしまった復路。天候、歩行者の数、そして心理面。雨が本降りにならなかったのは救いだった。(16:31) |
冒頭の写真と同じ出口に当たる。桜田門駅3番出口は閉鎖。東京メトロ社員が様子を見る。 |
普段は通れる桜田門もこのように立入禁止に(16:47) |
新丸の内ビルディングに着く。1階ロビーはすでに多くの人が詰めかけ、待機していた。大型ディスプレイでは、市原の火災の様子が映し出されていた。(17:11) |
東京駅(丸の内北口)に行くと、改札は自由に通れるようになっていた。駅の通路や階段では疲れた様子で座り込む人を多く見かけた。 |
タクシーなのかバスなのか、とにかく長い行列ができていた。東京駅に来れば、荒川土手(または江北駅)行きのバスに乗れるので、少なからず期待はしていたが、これでは到底ムリである。かくして徒歩帰宅を決意する。(17:18) |
2.東京駅〜外堀通り〜昌平橋通り〜不忍通り
こういう時は花粉症も何もないのだが、時折強く吹く寒風とともに、目も鼻も厳しくなってきた。だが、涙が何となく出てくるのはどうもそうした外的要因ばかりではなかったようだ。大げさかも知れないが、助かったという安堵感、皆で歩いているという一体感、そんなものが感じられたせいだと思う。
あのまま新丸ビルに留まっていた方がよかったか...という思いも時によぎったが、少しでも距離を稼ぐ、あれこれ記録しておく、そのためには明るいうちに限る、そう考えて歩を進めた。結果的にちゃんと帰れたんだから、それでよかったようだ。
淡路町近くのこの飲食店は、臨時休業(17:46) |
同じく淡路町の近江屋洋菓子店は、入口のガラスが大破するも営業中(17:49) |
弁当チェーン店は早々と閉店。こういう時こそ、と思うが、何か事情があったのだろう。(神田明神の近く、17:59) |
昌平橋通りと蔵前橋通りとの交差点一角に、なじみのファミレス(妻恋坂店)がある。あわよくば…の思いもあったが、この混雑で断念。この先にあるハナマサ(湯島店)があることはわかっていたので、そこで何か買ってしのぐことにした。 |
不忍池の西側、つまり不忍通りをずっと歩くのは初めてだったので、その先に「はん亭」があるのを知ったのも初めて。池の畔を歩いていた時は心細かったが、根津の近くに来て、この建物が視界に入った時は正直ホッとした。(18:31) |
根津駅前の交差点が不忍通り×言問通りというのを知ったのもこの時。その交差点角にある赤札堂(→地図参照)では、「1階のみの営業」としながらもしっかりやっていた。こういう姿勢は心強い。 |
3.根津〜団子坂〜本郷通り〜駒込駅(南北線乗車)
そして、ここ「不忍通りふれあい館」にたどり着く。筆者が入った時はまだ少なかったが、徐々に入館者が増え、いつしかイスを並べるのを手伝う状況に。このようにタイムリーな情報提供をしてくれる上、インターネットが自由に使えるようになっていて、実にありがたかった。滞在時間は1時間余り。 |
森鷗外の「青年」の冒頭で、根津神社や団子坂が出てくる。実はこの近所まで来ることはあっても、団子坂を上ったり、根津神社を正面から拝んだり、というのはこれまでなかった。これも何かのお導きだったのかも知れない。そして筆者は坂上にあるJCAFE事務所(同NPO代表宅)をめざした。公衆電話から一本入れておくべきだったが、途中で見かけた電話はどこも使用中。押しかけるような形になってしまった訳だが、幸いご歓待いただいた。誰か来るんじゃないか、などと話をされていたそうな。一家団欒の折、一緒に食卓を囲む恰好になり、そのうち飲み会の様相に。ここまでの疲労感を払拭して余りあるひととき(と言っても3時間!)を過ごさせてもらった。自分で言うのも何だが、こういう時は案外強運だ、そう思った。
言うまでもなく、ネット環境はバッチリである。細君とはメールのやりとりができ、細君の実家にはPC経由でFAXを入れることができた。(電話がつながらないため、自分の実家とは連絡がつかなかったが、この後の帰路で公衆電話からかけてつながった。無料だったのは何よりありがたかった。) ともあれ、南北線が動き始めたので、様子を見に行きつつ、おいとますることにした。23時前である。
南北線 東大前駅近くの歩道橋から本郷通りを撮影。この時間のこの渋滞は普段では考えられないだろう。都バスは2系統通っているが、いずれも増発されていて、このように連なっていた。ただし、至ってノロノロ。 |
南北線は立錐のスキなし、との話だったので、同線に沿って歩くことにする。バスは途中でつかまえられれば乗るつもりでいたが、都立高校がこんな具合で救援体制になっていたことで励まされ、この後、駒込駅まで歩くことができた。非常時の手書き文字には力がある。(向丘高校、23:15) |
4.王子駅(南北線下車)〜東十条駅〜稲付遊歩道〜赤羽駅
駒込駅からは何とか南北線に乗ることができた。乗った時にはとっくに日付が変わっていたが、乗ってしまえばとにかく時間も負担も減らせる。西ヶ原〜飛鳥山の上り下りを避けられたのはとにかく大きかった。
王子からはまた超満員になってしまったので、再び徒歩(24:16) |
東十条駅寄りには複数の踏切がある。JRは早々と運休を発表していたが、踏切は鳴りっ放しだった。(井頭踏切、24:39)(→地図参照) |
アルコールをいただいたものの、足取りは不思議なくらい確か。揺れを感じることもなかった。やがて東十条駅に着き、ゴールが見えてきた。(左の写真は、東十条駅に隣接する駐輪場から、その隣の「下十条運転区」を撮ったもの。駅と車庫との間が駐輪場になっていて、こんな風に京浜東北線を間近に見られるのがわかったのは今回の収穫の一である。)
東十条駅北口にて(24:48) |
東北線と埼京線が交わる手前数百m付近、宇都宮線か高崎線か不明だが、とにかくおなじみの車両が暗い状態で停車していた。地震発生時、ここで緊急停車し、乗客を降ろしたことが推測される。(24:55) |
赤羽駅西口ロータリーにて。理由はともあれ、公共交通が早々と運休してしまうのは痛い。(25:10) |
赤羽駅では、ディスプレイでニュース映像を流していた |
バスが動かないとなれば、タクシーしかない。それでも帰れる見込みがある人はまだよかったと言える。(駅の商業施設通路には、多くの人達が泊まり込む支度をしていた。)(25:16) |
スターバックスでは深夜にもかかわらず、復旧作業が行われていた。地震で何かが落下したのだとすると、ケガ人が出た可能性も。 |
赤羽駅での状況を見届けたら、あとは日常的な感覚で家路につくばかり。単純に、東京メトロに置き換えてここまでの距離を調べてみたら、麹町〜有楽町:2.8km、日比谷〜根津:5.1km、東大前〜赤羽岩淵:8.6km(うち、駒込〜王子:2.4kmは、乗車したのでその分マイナス)となり、合計で約14kmになった。
朝の歩行距離(東京〜半蔵門)を足せば、実に17kmになる。余計な体力を使った感もあるが、長距離を歩く助走のようなものになったとするなら、それはそれでよかったとも言える。(ちなみに、最短になりそうなルートとしては、半蔵門〜神保町〜白山:5.1km、本駒込〜赤羽岩淵:7.7kmの計12.8km。駒込〜王子を地下鉄に頼ったとすれば10km程度になり、かなりの差が出る。皇居の南側をとるか北側をとるかの違いだが、短ければいいといいものでもない。実証済みルートの方が無難という考え方はある。)
かなり寄り道したので、純粋な歩行時間は明確ではないが、おそらく3時間半ほど。そう考えるとヘトヘトになりそうだが、帰宅したらスゴイことになっていて、到達感も疲れも吹っ飛んでしまった。余震にビクビクしながらも大まかな片付けをし、ひと段落した頃には、夜が明けていた。
地震発生から17時間。長かったような短かったような、である。まず体験できない感覚であることは間違いない。
*この続き、書けそうなら書くことにします。
|