随筆「東京モノローグ2010」(11−12月期)
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ターミナルビル3階 出発ロビー。駅からすぐ!第318話 ターミナルかビルか〜羽田空港国際線レポートなど

出版記念会には、江田五月 元参議院議長も参加第319話 アースデイニュースと須田春海さん

初めて乗った江戸バス(中央区コミュニティバス)第316話 乗れない話

この日も2,000セットが配られた(@東京国際フォーラム 屋台村)第317話 サンプリング

第319話  アースデイニュースと須田春海さん(2010.12.15)

議員会館側から見た国会議事堂 国会議事堂の近傍に、衆議院第二議員会館というのがある。「海ごみサミット 東京会議」が11月2〜3日にここで開かれるというので、別件ついでにフラリと訪れたが、あいにく2日目は会場変更云々ということで、中には入れず。やはり議員会館というだけあって、そうそうご縁があるものではない、そう思っていた。が、今回「須田春海採録」出版記念会(以下、記念会)が当地で行われるということで、機会が巡ってきた。お手伝い要員だが、とにかく入れる。まずはそれがトピックスである。

 空港同様のセキュリティチェックがあるが、記念会参加者はそこを省略して入館証のタグを手にゲートへ。今夏、新装されて広くなったというこの議員会館、奥の多目的会議室に至るまでの道程はそれなりにある。11時から13時までの記念会の半ば頃、会場受付と会館入口を何度か往復したが、ウォーキングエクササイズをしているような感覚だった。立派なのはいいが、この移動は堪える。会館を出てから忘れ物に気付いた場合の慨嘆は小さくない。セキュリティチェックの隣で誘導係をしていた際、途中退席された参加者の一人が傘を忘れたことに気付き、大わらわになっていた。入館証を返却済みの場合、ゲートを通るのに再度労を要する。議員会館とはそういう場所である。(指定の場所以外は行けないし、撮影できるのはその場所の内部のみ。珍しい場所ほど記録したくなるものだが、ここはそうは行かないので、画像はありません。あしからず。)

 さて、本題の記念会だが、このようなプログラムで、概ね予定通りだったようだ。(12時から40分ほど会館入口にいたので、その間は不明)

 須田さんご本人の肖像権を考えると、そう易々と載せられるものではないと思い、ここでは以下の2枚のみ紹介する。

 ミニシンポ開始前、挨拶に立った江田五月氏(→詳細

 ミニシンポの様子(記念会参加者は約170名に上った)

 元参議院議長がこのように出席することからして、そうそうたる顔ぶれが集まっていることはお察しいただけると思う。

 市民運動の系譜にある政治家と言えば、今の内閣総理大臣、衆議院議長もそうである。メッセージが寄せられ、読み上げられた。閉会前には、福山官房副長官も駆けつけ、須田さんから叱咤を受けていた。(筆者もこの模様は撮影したが、控えることにする。躊躇はあるが、この記事をご参考まで。)

 とにかく採録(→参考が出版され、本人来臨のもと記念会が盛会に終わったことは何よりだと思う。今後は、ブログを拝見しつつ、蔭ながらお見舞いさせていただくつもりでいる。

 採録は三部作になっている。その3「環境自治体編」に僭越ながら一筆寄稿させていただいた。雑誌や新聞を除き、ISBNコード付きの出版物で、実名とともに文章が載るのはこれで三度目である。(裏話:余裕を持って原稿を納めるも、編集方針をわかっておらず、書き直したり何だかんだで滑り込みのような感じに。そのため、二の手、三の手が入ったことを知らず、いただいた本で最終形を確認する始末。何の了見で手が加わるのかはよくわからないが、ともかく拙文を収録してもらったことは感謝しないといけないだろう。)

 東京モノローグでは、これまで特定の人物名を表題にしたことはない。だが、今回は折角なので、「アースデイニュースと須田春海さん」と改題して、ここに綴ろうと思う。(寄稿した原稿をもとに、詳述を加えてある。)


 1990年4月22日の夢の島(アースデイ・フェスティバル1990)に出かけて、その二年半後にかつての市民運動全国センターに足を運んだ。1993年のアースデイ・フェスティバルの打合せがあるというので来たのだが、この時に初めてアースデイニュースを手にした。1992年8月発行の同年No.12(→PDFである。基本的な型は変わっていないが、ニュース表紙に載る文章にメッセージ色が投影されるようになったのはこの頃からだったようだ。須田さんの巻頭言と呼ばれるものである。

 「あせらず、効果ある基本法の実現を!」というのがその時の見出し。相応の成績(?!)で法学部を出た人間としては、決して遠い話題ではなかったはずだが、ピンと来なかった。法が本来は市民の手にあることをわかっていなかったためであろう。

 そんな素人がその後、定期的にセンターに顔を出すようになった。主にアースデイ・フェスティバル絡みではあったが、ニュースを発行する現場に来る以上、自ずと関わる場面は増えてくる。

 1992年の暮れに自分用にノートPCを買った。昨今の機種と比べるとかなりの低スペックだが、当時としては奮発した方だった。MS-DOSの世界だったが、テキスト文書を作るには申し分なかった。それがよかったのかどうなのか、アースデイニュース、特に「アクション情報」の一部を担うことになった。センターに届く並々ならぬニュースレターや機関紙の中からイベント情報などをピックアップして、それを打ち込み直すという作業が中心。年末に一定量を持ち帰り、1993年は正月明けからポツポツ打っていたのを思い出す。買ったはいいが、今ほどいろいろなことができる訳ではなかったPCにとって、これは一大事だったに違いない。こっちもキーボード入力のいい訓練と思いつつ、つい打ち込んでしまうのだった。

 今は然るべき情報源にアクセスできればイベント情報は一望できるし、気になる団体の情報であれば、定期的に見に行くか、配信を待てば済む。インターネットがまだ市民の手になかった時代はそうは行かない。だからこそ、より価値のある作業だったのだと思う。全国には実に多彩な団体があって、多様な取り組みが地道に続けられていること、そうした情報がセンターに集められて、整理されて、再度広く発信されることで全国的な一体感につながっていくこと、若輩ながらそんなことが徐々に実感されるようになった。気が向くと週末返上で、ということも少なくなかった。

 環境に関する知識は、自主的に取り込むようにしていたが、アースデイニュースは正に活ける情報そのもの。しかも日常的に接することが少ない話題ばかりである。いつしか、ニュースを手にするとこう自問するようになっていた。「これを自分でどう活かすか・・・」 (その後、環境の仕事に就くに至ったことを考えると、少なからず活かせたのだと思う。ニュースと須田さんのおかげである。)

 「アクション情報」は見るだけでなく、実際に行ってみないと始まらないと思うようになったのも同じ頃である。自分で入力していて興味を持ったものはもとより、まとめ直されて眺める中から足を運んだものも少なからずあった。Act Locallyと言うと大げさだが、現地・現場へ、という精神はこうして会得していったようだ。

 1993年8月発行のNo.6(→PDFのp.19に「アースデイ連絡所ルポ」というのがある。センターの様子と須田さんの当時の定位置などがイラストで載っていて懐かしい。このイラストでは至ってコミカルだが、初めてお会いした時の須田さんはとてもこんな感じではなかった。会社の上役にもこういう風貌の人はまずいない。巻頭言のハードル同様、とにかくおそれ多い存在だった。そうでもなくなってきたのは、ニュースへの関わり具合が深まったことと比例している。

 最初にセンターを訪ねてから三年が経ったくらいから、ニュースの末尾に名前を載せてもらうようになった。(波はあれどもその後四年ほど、編集側の一員として手伝うようになった。) 自分で記事を書くようになり、取材に行くようになり、そして一つの転機が来る。インターネットである。

「Internet World EXPO 96」会場概念図 会社の勧めもあり、「インターネットEXPO」に応募した。仕事上はネタがなかったので、アースデイ日本での出展を提案した。するとこれが運よく通り、サーバを無償で借り受けることができたのである。有志の協力も得て、ホームページをはじめとする情報インフラを整備することになった。1996年8月のことである。

 独自ドメインではなかったが、とにかく場はできた。紙媒体に加え、インターネット。これは大きい。ホームページを持たない市民団体の情報は特に入念に掲載させてもらった。ニュースのテキスト文をHTMLに乗るように編集し直すなど、とにかくその頃から一連の情報を預かるようになった。

 ネットの強みを反映させるために思いついたのが、コンテンツに連続性を持たせること、読み手との双方向性を持たせることの2つ。連載や読者欄がこの頃から目に付くようになったのはそのためで、編集会議で進行役をする際は、特にそうした観点を念頭に臨んでいたのを思い出す。

 ホームページができても紙媒体の重要性は変わらない。公称3,500部という発送数は今にして思えば圧巻の極み。折って、封に入れて、糊付けして、押さえつけて、というのができないと発送作業では使い物にならない。時に席を並べて作業することがあると須田さんから冗談交じりにダメ出しを食らうこともあった。この手の作業は得手とは言えなかった。その分、編集とweb掲載に力を入れさせてもらった。

 「迷惑者としての”国”をどうするか?」(→PDFなぜ杉並病に無関心でいられるのか?」「恐慌よ、来るなら来い?!」・・・今回の採録でもおわかりの通り、須田さんの巻頭言には見出しから衝撃を受けるものがある。内容も然りで、いつも目を見張らされていたが、ホームページに載せるとさらにインパクトを増し、載せながらオロオロしたものである。初めてアースデイのホームページでこれを目の当たりにした方は驚かれたことだろう。その姿を想像すると悩ましくもあったが、その衝撃こそがネットの力と信じ、コツコツやったものである。

 アースデイ日本のホームページそのものは閲覧できなくなってもう何年も経つ。だが、当時のコツコツが少しは奏功して、一部は復刻できて、結構なアクセスをいただいている。掲載順序に整合性がないのが面目ないが、http://www.earthday.jp/record/をとにかくご覧いただければと思う。(ここまでの復刻はボランティアベースでできたが、完全復刻までは道半ば。データ復旧用のカンパをいただければ、あと数年分は復刻できるのだが・・・)

 振り返ってみると「アクション情報」をコアとすることを理念としたアースデイニュースはつくづく偉大だったと思う。「アースデイニュースは、アースデイの各地での取り組みを国内外で知らせ合おうという思いから誕生」「それぞれの活動やテーマを尊重しつつ、共通認識をもって取り組んでいきたい重要なテーマと具体的行動を提案」という趣旨にもそれは表れている。奥付の記載「発行者 須田春海」はそれだけでもインパクトは大だが、ニュースの「型」を伝えるのも発行者の使命とするなら、こんなに明確なメッセージはないだろう。

 つなぎ役に徹しながら運動を推し進める、これが須田さんの理論の一つだとすると、アースデイニュースはそれを具現化した媒体と言っていい。特定のカラーもなければ、特定の人物がしゃしゃり出るようなこともない。関わっていて居心地のいい媒体だった、だからこそ続けられたのだと改めて感じる。自己主張や自己表現の一手段として、「環境」(またはエコ)が取り組まれることは今に始まったことではないが、そうした傾向へのアンチテーゼだったのでは、と思うこともある。学ぶべきものは多い。


 なお、2010年は1970年にアースデイが始まってから40年。日本で最初のアースデイイベントが開催されてからは20年、という年である。2010年もあと2週間余りという時期に、採録が発刊され、記念会は開かれた。この意義は決して小さくない。

  • こちらもどうぞ...⇒ アースデイニュース関連

アースデイニュース(1990〜2000)について / アースデイ記録集の復刻掲載について

 

第318話 ターミナルかビルか(2010.12.1)

 羽田空港に関しては事あるごとに載せてきたつもりだが、飛行機ついでがないとなかなかタイムリーには行かない。第30話は、開業初日の羽田空港駅(京急)、第174話は、第2ターミナルがオープンして4日目と上々だったが、今回の国際線ターミナルビルは、京急の新駅に一応出向きはしたものの、実際に下車して、ターミナルビルに足を踏み入れたのは開業後何とか1カ月以内である。それでも、羽田<=>金浦を大韓航空で往復するという機会が折りよく巡ってきたから実現した話で、タイムリーだったと言えばタイムリーだろう。

 10月21日の開業日は、モノレールはフラワートレインの運行開始、京急は「羽田空港国内線ターミナル5:23発→羽田空港国際線ターミナル5:25着」という始発前記念列車の運行というのがあったが、到底行き着けるものではない。それでも何とか都合を付けて、京急乗車を果たし、初日の「羽田空港国際線ターミナル」駅ホームへ、というのは叶った。

 第310話に記した「エアポート急行」に乗って、新駅をめざす。ただ、ハズレの急行だったようで、京急蒲田で実に5分待機(16:59着→17:04発)。快特(17:00着→01発)を待ち合わせるのはわかるが、平和島で抜いてきた普通列車(平和島16:53着→17:00発|京急蒲田17:03着→04発)が来るのを待ってからの発車というのはいかがなものか。これでは急行の名が泣くし、モノレールと比べて明らかに分が悪いだろうと思った。(品川から国際線ターミナルまで何と24分!)

 この日を以って、「羽田空港」は「羽田空港国内線ターミナル」に改称されたことになっているが、写真の通り、行先表示は変わっていなかったりする。駅名標や路線図はもちろん書き換わっているし、車内の電光表示についても「Domestic Terminal」と改まっているのでいいのかも知れないが、「こういうこともある」(緩やかな移行措置とでも言おうか)のを知った。(ちなみに券売機で発売される切符の印字も羽田空港のままなんだそうだ。《→参考

 そんなこんなで天空橋に着き、程なく新駅へ。かつて、天空橋〜羽田空港は距離を感じたが、その間に新駅ができ、距離感が変わった気がする。(天空橋-(1.2km)-国際線ターミナル-(2km)-国内線ターミナル だそうだ。3kmだと距離を感じるが、2kmであればそうでもない?)

 できたてだから、というのもあるだろう。新駅にはホームドアが設けられていたが、それと列車のドアが開くタイミングが間延びしていて、少々面食らった。ただ、それ以上に到着時刻に遅れが生じていて、気が付けば品川からは30分近くが経っていた。ホームドアどころではなかったのである。

 「!」となった出来事は、そればかりではない。しばらくうろうろして気が付いたのは、反対側のホームに行けない!ということである。上り下りでホームが分かれている場合、連絡通路(地下駅の場合は線路下)があったりするが、それがない。折り返すには、終点の羽田空港国内線ターミナルまで行ってから、上り列車に乗るということになる。(筆者がこの後どうしたかについては、ご想像にお任せする。)

 こうして見るとあまり幅広に見えないが、カートが楽々通れる。左側の有人改札が4言語対応インフォメーション。

 行先表示は「羽田空港」。これを「羽田空港国内線ターミナル」に改めるのはナンセンスな気もする。

 いい意味での「!」は、ホームも改札も、ターミナルビル上階行きのエレベーターも全て広めにできている、ということだろう。有人改札が多言語対応(日英中韓)のInformationを兼ねていることも特筆に値する。その他の特長は、改札を通ってからでないとわからないため、韓国行きの日までお預けとなる。

行先はやはり「羽田空港」のまま(品川駅高輪口改札にて) そして、11月17日。時差回数券を手に京急品川駅で10時になるのを待っていた筆者は、試しがてら回数券を改札に投入。見事(?)、9時57分に通り、10:04発の真っ当なエアポート急行で、再び国際線ターミナルへ。京急蒲田での待機時間もなく、今度はちゃんと20分で着き、まずはひと安心である。

 下見で一度来ているので、要領はいい。カートに荷物を載せ、改札をさっさと抜け、エレベーターへ。たちどころに出発ロビーに着いてしまった。金浦行きのKE2708便は12:20発なので、余裕綽々。初日にマスコミ各社が報じ合っていたスポットの数々を見て回る。(ここではほんのサワリだけを紹介)

 エレベーターを上がって数分もすると、この広がりが迎えてくれる。奥のエスカレーターで上がると、「江戸小路」(4F)に出る。

 報道で見た時も、窮屈そう&セットのような感じ、だったが、実際もその通りだった

 ソウル、台北が目に付くが、とにかく便数は多い!

 江戸小路は混雑していて不可ない、という方はさっさと出国エリアの免税店に来る方がいいかも知れない。こうしたちょっとした見モノがある。

搭乗口から飛行機までの近さも特長 ここから発つ機会がまたあったら、今度はもっとゆっくり(1時間前で十分?)でいいと思った。とにかくこのアクセスの良さは、「!」なのである。

 ターミナルビルの見学につい時間を費やしてしまい、駅舎の方がおろそかになってしまった。何でもエレベーター7基分の電力を賄えるという太陽光発電設備が「駅舎」にはあると言う。だが、駅舎即ちターミナルビルではないのか? おそらくきちんと検証すれば、その境目があり、駅舎屋根というのもわかったのかも知れないが、残念ながらこの日はそれが把握できなかった。せっかく下車できたのに...と思う。

出発ロビーの時計台。名前はまだない。 ←この時計台、一応、京急のターミナル駅の付属物ということになっている。エレベーターを出て、この時計台に至るまでの道中におそらく駅舎屋根が存在していたようだ。ちなみに2011年1月16日まで、この時計台の愛称を募集中とのこと。韓国ツアー(3泊4日)が1名様に当たるというが、万一当たっても「また韓国...」になってしまうので、今回は見合わせ。

 京急が「ターミナル」なら、東京モノレールは「ビル」である。だが、ここは紛れもなくターミナルビル(公式サイト上は「羽田空港国際線旅客ターミナル」)。両者とも国際線ターミナルビル駅でよかったような気もするが、どうなのだろう。それとも、ターミナル駅+ビル駅=ターミナルビル?ということだろうか。

 帰路は、「モノレール&山手線内割引きっぷ」が使える都合上、モノレールの「羽田空港国際線ビル」駅を使う。開業後1カ月以内の新駅利用、というのはやはりいいものである。ただ、ターミナルビルと一体になっているため、京急同様、「これが駅舎!」というのがない。とにかく撮れるだけ撮って、あとで振り返ることにした。(乗降の通算は、国際線ターミナルが2529番目、国際線ビルが2530番目となった。詳しくは、「駅ログ」の#2529#2530の通り。)

 京急が地階にあるのに対し、モノレールは到着ロビーと改札が一体なので、迷いようがない。(下りホームは、出発ロビーと同じ階だとか。浜松町からの客がすぐに出発できるような構造になっている。)

 手荷物のおかげで余計な時間はかかったが、空港快速に乗るのにちょうどいい時間になっていたので結果オーライ

 振り返って気が付いたのは、駅名標の英文表記が「〜International Terminal」(京急と同じ)になっていたことである。こうなると、京急とモノレールで駅名を分ける必要が益々怪しくなるが、全く同じという訳には行かないのもわかる。苦肉の策と言えそうだ。(厳密にやろうとすると、「京急羽田空港国際線ターミナルビル」駅と「モノレール羽田空港国際線ターミナルビル」駅とかになってしまう可能性はある。ターミナルとビルの使い分けで済むなら、それに超したことはない。)

 京急「羽田空港国際線ターミナル」(英文は"Haneda Airport International Terminal")

 モノレール「羽田空港国際線ビル」(英文表記にご注目)

 ホームから出発ロビー、到着ロビーからホームというアクセス面、乗車時間の短さではモノレールに軍配が上がりそうだが、通しで遠くまで行けるという点では京急が上。あとは運賃や速達列車(エアポート快特、空港快速)のタイミングや本数が決め手になるだろう。

 赤羽から国際線ターミナル(品川乗換)は、正規運賃だと690円だが、時差回数券(平日10〜16時)を350円とかで手に入れると、640円になる。国際線ビルから赤羽(浜松町乗換)は、正規運賃だと760円だが、土日祝日限定の「モノレール&山手線内割引きっぷ」を使うと500円+150円(池袋からの精算)で650円になる。往路と復路で最適な条件を見出すことがはじめの一歩と言えそうだが、国際空港を利用する時は別にセコセコしなくても、というのもある。ご参考まで、ということで。(^^;


  • おまけ1:かくして「羽田空港」駅は消失...

 羽田空港絡みの駅名の移り変わりは激しいものがある。

 空港に近いとは言えない京急が羽田空港駅で、空港ビルに隣接しているモノレールが羽田駅だった時代もある。京急とモノレールの羽田関連の駅の変遷を正しく言える人は少ないだろう。

 とりあえず、わかる範囲でまとめてみたら、こうなった。できれば、図解したいところだが、過去の地図の引用(欄外参照)でご勘弁願いたい。

年月日

現在の駅名 →

天空橋

京急空港線

東京モノレール

↓ できごと

羽田空港国内線ターミナル

羽田空港第1ビル

羽田空港第2ビル

〜1993.3.31 

現・天空橋の位置に京急の駅はなし

1993.4.1

京急 羽田駅(現在の天空橋)まで延伸

羽田(京急のみ)

1993.9.27

 モノレールが移設され、京急の羽田駅とモノレールの羽田駅が連絡

 モノレール 羽田空港駅(現在の羽田空港第1ビル駅)まで延伸

羽田(京急&モノレール)

羽田空港

1998.11.18

 京急 羽田空港駅(現在の羽田空港国内線ターミナル駅)まで延伸

 羽田駅は天空橋駅に改称(京急・モノレールとも)

天空橋(京急&モノレール)

羽田空港

羽田空港

2004.12.1

 モノレールが羽田空港第2ビル駅まで延伸(羽田空港駅は、羽田空港第1ビル駅に改称)

 羽田空港駅は再び京急単独の駅名に(〜2010.10.20)

天空橋

羽田空港

羽田空港第1ビル

羽田空港第2ビル

2010.10.21

新たに羽田空港国際線ターミナル駅と羽田空港国際線ビル駅が開業

天空橋

羽田空港国内線ターミナル

羽田空港第1ビル

羽田空港第2ビル

 単なる「羽田空港駅」は10月21日を以って消失となった。全て「羽田空港某」となり、その種類は実に5つである。(浦和、新宿並み?)

  • おまけ2:なぜ韓国?

 2年前は新潟だったが、今回の開催地は韓国の光州広域市。隔年開催で5回目を迎えた「東アジア環境市民会議(東アジア気候フォーラム 併催)のためである。

 会議については、韓国側主催者でまとめているものが日本語になってから、ということで省くが、現地に行って強く思ったのは「光州は独特」「光州事件が市民への弾圧だとすると、今の韓国各地で展開されている大規模工事は自然への弾圧であり、過去の教訓が活きていないのではないか」ということの2つ。

 光州は、その恵まれた風土から作物が豊かだったことがアダとなり、地主が農民を圧する時代があった。その反動で民衆には力(独立の気概)が蓄えられ、民主化に対しても鋭敏だったというのがある。独裁政治下において民主化意識は足枷である。こと光州に関しては、そうした意識の芽を摘むような政府の動きがもともと顕著だったそうだ。そして、1980年5月18日、あの光州事件が起こる。端的には、市民の民主化要求 と 新軍部の全面降伏要求 との衝突と捉えられる。民主化を求めるほど、逆上するように軍が阻害し、遂には光州を孤立させる作戦を打って出たというのだからその異常さがわかる。事件の詳細はここでは伏せるが、とにかく時の政府の対応は強硬の一点に尽きる。気懸かりなのは、そんな強硬姿勢が今なお脈々と続いているのではないか、ということだ。(例:「湿地への思いやり」「DMZ国立公園推進」「4大河川事業が河川を救うことができない理由」)

 最初に発砲事件があった地、光州高等学校。その正門の前にある「4.19民主革命史跡」

 4大河川の支流「栄山江」では、河床を掘ったり、川幅を拡げたりといった工事が続く。川の流れは分断されていると云う。

 ダムの工事を示す大看板。水質改善と洪水防止を目的としているが、効果は不透明。

 光州事件の犠牲者が眠る「国立5.18記念墓地」にて。左が記念館、右がモニュメント。

 ダムは着々と建造中。光州空港から5kmほど南に位置する。

 市民生活上の民主化は進んだかも知れないが、環境の民主化という点ではどうなのだろう? 真の民主化実現は、もしかすると粗暴な自然破壊が止まった時、と考えることができそうである。もっともこれは日本においても問われる可能性は大いにある。

  • こちらもどうぞ...⇒ 羽田空港が出てくる話題(本文以外)

第109話 私鉄特急 / 第137話 タクシー地名考(羽田空港編) / 第234話 車内で買えない?京急バス一日乗車券

 

 

←1978年の地図:京急の羽田空港駅は、海老取川を越えない位置にある。モノレールは滑走路の下を走り、ターミナルビルまで短絡。昭和島駅はまだない。/→2002年の地図:モノレールは環八通りに沿うように通る。空港の面積も格段に広くなった。

国際線旅客ターミナル開業後の地図:2002年には載っていた羽田東急ホテルと日航ビルがなくなっている。

第317話 サンプリング(2010.11.15)

 流行語になりそうな予感もあるが、そこまで行っていない観もある。だが、普通に街を歩いていて遭遇する機会がそれなり、ということはやはり流行っているのだろう。2010年は何かと「お試し」の類、俗に言う「サンプリング」に出くわしたなぁ、と思う。予め聞きつけて、というのも勿論あるが、そうでないのも少なからず。何かを購入するのに踏ん切りがつかない消費者が増えているのは、筆者がそうであることからしても大いに実感できる。売れないのはマーケティングがどうのこうの、という時代でなくなったのも確か。マスが個人を誘導する時代でなくなったのは、従来型のファッション誌がファッションをリードできなくなっているとされることからもわかる。「これなら売れる」と意気込んで風呂敷を広げるのではなく、一定の仮説に従って、「まずはここでこういうお客に試してもらって」というところから始めるのが浸透してきた、ということかも知れない。

 「試してもらわないことには始まらない」というのもよく聞く話。試す分には人数が多い方がいい。とすれば東京で暮らす以上、日常的に遇するのは当然と言えそうだ。(試すだけ試して買わない、というのも大いに有り得るが、その辺は織り込み済みなのだろう。)

 前々から続いている催しもあるが、ここ半年ほどで体験したサンプリングを順に綴ってみる。(その後の購買行動についてはご想像にお任せする。)


  • 地酒・地ビール(4/8)

 都内ではなく、さいたまスーパーアリーナでの開催というところが意表を衝いている。「関東信越きき酒会」なる催しの情報をひょんなことから手に入れ、開場時間に間に合うように出かけてみた。日本酒を得意としない筆者は、きき酒には積極的でなく、こじんまりと併催されていた「きき地ビール」の方にウツツを抜かすことになる。だが、このハマリ方が良かったようで、あとで来てみたら軒並みサンプリング終了状態。地ビール、結構な人気なのである。何をどう呑んだ(正確には「含んだ」?)のかは記録しなかったが、記念に「常陸野ネストビール」の330mlビンをもらってきている、というあたりから推察してもらえればと思う。

  • アイスクリーム(5/9)

 第113話でも書いたが、アイスクリームの日、というのがあって、何年かぶりにキャンペーンイベントに行ってみた。日曜日と重なっていたから、というのもあるが、行ける時には行ってみるものである。当たり外れは激しいが、普段買うことのないアイスを試すことができるのはいい。恰好のサンプリングだと思う。

  • マック

 コーヒーのサンプリングが4月〜7月にあったかと思えば、9月はカフェラテが振る舞われた。とかくマックで「サンプリング」を目耳にする機会は多く、それにあやかることもまた少なくなかった春・夏であった。

 ケンタッキーが、オリジナルチキンを創業価格で販売したのと同じ日(7月4日)には、「ジューシーチキンセレクト」がサンプリングで供された。別のメニューを買うともれなくチキンがついてくるという形態のサンプリングもあり、都合数回賞味させてもらった。

  • キャベツ(8/1)

 8月2日は、「キャベツの日」なんだそうで、その前日の日曜日、銀座に出かけていた筆者は偶然にも数寄屋橋公園でのキャベツイベントにぶつかる。JA嬬恋による大玉キャベツの無料配布である。この時はキャベツがえらく高値だったので、大いに得した気分だったが、何せ重量野菜である。その日の行動範囲が狭まったことは言うに及ばず。

  • 播磨屋

 サンプリングの常設店と言えば「播磨屋」だろう。2009年に始まった当初は、こんな具合に行列ができるのが当たり前だったようだが、おかきの有料化に伴い、人出は落ち着き、入りやすくなった。コーヒーショップではないので、サンプリング品としてコーヒーを振る舞っている訳ではない。だが、そう思わせるほど真っ当なコーヒーだったので驚いた。(他にも飲料はあるが、制限つき)

 

  • 復刻ドーナツ(9/30)

 ケンタッキー同様、ミスタードーナツも今年で40周年。記念イベントとして復刻ドーナツが無料配布された。この日は「ハニードゥ」を頂戴した。(ミスドから遠くない場所にKALDIがあるので、ここの「常時サンプリングコーヒー」をもらい、ちょっとしたドーナツセットとしておやつにした。組合せがよかったか、美味しくいただけた。)

 14時からだったので、その10分ほど前から並んだところ、楽々いただくことができた

 食べる前に記念撮影(包まれた状態では何とも言えないが)

  • Blendy(10/26)

 Blendy stickについては、電車内の全面広告で目にしていたが、そのキャンペーンの一環で、カフェオレのスティックにスティック状のスイーツをセットにしたものを配るサンプリングイベントがあるというのを聞きつけた。(散髪中のFM放送で、というのが我ながらスゴイ?) パスポートの申請に行きがてら東京国際フォーラムの広場(屋台村)に足を運ぶ。OLがターゲットだが、手広く配っていたのでしっかりゲットできた。ドーナツセットもよかったが、このStick × Stickも上々だった。

 OLの来場がやはり多かった

 10/25〜29の5日間で10,000名に配布!

  • スタバ

 新宿サザンテラスのスタバに行って来た人物から、お土産にもらったのがこのスティック。Blendyが先かスタバが先かはいざ知らず、キャンペーンというのは露骨に競争原理が働くので、こういう機会を逃す手はない。この「スターバックス ヴィア®」、今は街頭サンプリング期間(→参考になっていて、今週・来週と大々的に展開される模様。またいただくとするか。

 

  • その他

・モニターとして登録しておくと、運が良ければ会場調査に参加できて謝礼もいただける、というのがある。消費者の声を確実に商品企画に投影させるという点で、「これぞサンプリング!」だと思う。(9月に某調査に参加する機会を得たが、詳細は明かせないので、そういうのもある、ということで。)

・かかりつけの病院の入口に置いてある「手指殺菌・消毒剤」をよくよく見たら、「試供品」になっていた。スーパーや公共施設に置いてあるのはスプレー式の普及品が主だが、これはポンプ式かつゲル状タイプ。上位品が試供されるということは、サンプリング対象の質が高いということか。患者さんがこれを使って「あら、いいワ」という場面はまず見ないが、一応、そういう想定なのだろう。

・どん兵衛がJR渋谷駅のホーム(山手線外回り:新宿・池袋方面)に出店した(→参考というので覗いてみた。無料ではないが、これもサンプリング。すぐに試せるからインスタント、というのは一理ありそうだ。スーパーで特売で出るどん兵衛を200円で、というのは割に合わないが、地域限定どん兵衛が200円、というのは耳寄りだろう。Suicaも使えることなので、一度試してみようと思う。

・生物多様性関係の資料を入手しに、地球環境パートナーシッププラザ(GEOC)に行ったら、国連大学の広場で「Farmer's Market @ UNU」なるイベントが盛大に開かれていて少々予定が狂うことになる。こういう場所ではサンプリングという表現は出てこないが、試してもらわないと始まらないのは同じ。試食・試飲させてもらった品々、いずれも良質だった。

 お芋はもちろんのこと、

 マリネも美味だった。


 引き続き、サンプリング.jpなどを手がかりに試してみようとも思うが、行き当たりばったりだから楽しい、というのもある。乗せられない程度に試す(否、試される?)としよう。

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第17話 浦和・大宮・与野...〜サッポロビール埼玉工場 / 第25話 小山酒造見学記 / 第136話 試食生活 / 第162話 横浜週末(みなとみらい編) / 第205話 無料スポットと無料サービス(23区内編) / 第225話 スーパーマーケットにおける「べからず集」 / 第261話 試飲の進化形 / 第281話 ランチビュッフェ

 

第316話 乗れない話(2010.11.1)

 5年前の10月31日は諫早に行っていた。第199話の11.参照) 13:11、島原鉄道の「干拓の里」駅に着き、同駅最寄の停留所「尾崎」から「不知火橋」行きのバスに乗るべく、停留所を探すも、見つかったのは何とも頼りない案内柱。不知火橋行きはこの道を通る筈と踏んでいたのに、時刻が出ていない。あるのは朝と夕方のみ走る系統の時刻のみだった。不審に思い、国道57号沿いに出てみると、「尾崎バス停はこちら」と標識が出ていて、それに沿って歩くと程なく停留所を発見。そこには確かに不知火橋行きの時刻表・路線図も出ていたのである。

 13:26尾崎通過、不知火橋行きのバスが近づいてきた。が、あろうことか手前で左折してしまい(筆者の向きからは右方向)、先刻の時刻表の出ていない停留所を経由するルートで去って行ってしまったのである。この時の心情、お察しいただけるだろうか。

 ローカルバスゆえ、一日数本である。甚だ不本意ながら、重いバッグを担ぎ、県道124号(大里森山肥前長田停車場線)を不知火橋まで約30分、徒歩で向かったのだった。当初予定では、13:30過ぎに不知火橋に着き、そこから肥前長田駅まで歩き、13:54に同駅を出る普通列車で佐賀に向かう手筈だったのだ。(干潟の干拓工事の状況を諦観しつつ、ローカル線の旅を楽しむつもりだったのだが...)

 干拓の里駅はこんな感じ

 駅からここまで2kmほど。JRの駅はまだまだ先。

 乗降記録をつけ損なった肥前長田駅

 国道207号線はJRと並行していて、肥前長田駅に近接していたのがよかった。駅の程近くに東長田の停留所を見つけ、14:33のバスで諫早駅に戻れたのは救いだったと思う。特急に不承不承乗ることにはなったが、これでさらにタイミングが悪ければ佐賀には到達できず、佐賀空港からの飛行機にも乗れず...つまり帰京できなくなるところだった。

 10月31日はそういう日である。そして5年後の10月31日。今度はまた違う形で「バス運」が空転することになる。

 2008年から3年続けて出かけている「中央区まるごとミュージアム」イベントだが、今年は過去2回と違い、区内をぐるぐる回るのは控え、三井記念美術館での美術展鑑賞会(+「円山応挙展」ご招待)に注力することにしていた。余力があればまた無料巡回バスで周遊、というのも考えていたが、三井の向かいに新しくできたCOREDO室町などを見物するとなればそれどころはないことは承知していたので、予定としては悠々としたものだった。

 三井、即ち日本橋三井タワーに行くことがわかっていて、ランチはCOREDO室町の隣にやはり新たにオープンしたYUITOにある店でビュッフェ(開店記念特価)、と目論んでいたのだから、さっさと日本橋室町をめざすのが道理である。

 となれば、おなじみ「メトロリンク日本橋」の出番だが、東京駅に近い乗り場でなく、八重洲地下街の出口に近い乗り場から乗ることにした。その近くに良心的なチケットショップがあり、印紙の売価などをチェックしておきかった、というちょっとした理由からである。

 乗り場近くに来ると、ちょうどメトロリンクが発った後だった。5年前に世話にならなかった長崎県営バスと違い、こっちは10分間隔なので合間にそのチケットショップを物色すればいい、そんな楽観である。店を出て、乗り場で待つ。先のメトロリンクを見送ったのが11時前後だったので、遅れを見込んだにしても11時11分までには乗車できないとおかしい、ということになる。が、来ない! 未確認情報ながらこの日は「まるごとミュージアム」シフトで中央区のコミュニティバス(江戸バス)が無料、ということだったが、その「無料」を掲げた赤いバスが目の前を過ぎ、メトロリンクが来ない、という事態。乗り場を示すボードを見ると、そこには一枚の貼り紙があった。事情がつかめたのは11時15分のことである。中央通り(京橋〜三越前)で催される「大江戸活粋パレード(日本橋・京橋まつり)」のおかげで、運休!になっていたのである。

 見送った一本は、運休時間帯に入る前の最終便。通り過ぎていった江戸バスは、数分のビハインドだったが、11:08にブリヂストン前を発った通常便だった。江戸バスの路線図はなくはなかったが、この「八重洲地下街入口」からずっと東、メトロリンクで言うなら一つ手前の「八重洲駐車場入口」に、その「八重洲通り西(ブリヂストン前)」停留所はあって、そこまで行く気にならなかっただけの話。メトロリンクがこういうことになっているとわかっていれば、そこまで行って、その11:08発に乗っていたものを、と思うが「後のまつり」である。(お騒がせの「日本橋・京橋まつり」は、11時半スタート。「この後のまつり」のせいで「後のまつり」になってしまうとは...)

 これがその貼り紙(11時〜15時30分の間、運休)

 江戸バスの貼り紙は「本日無料」ではなく、「迂回運行のお知らせ」

 今回が初乗車の江戸バス。筆者的には難物(?!)

 細君とあぁだこうだやりながら、手堅く「東京駅八重洲北口」(メトロリンクは「東京駅八重洲口」)へ行き、次の江戸バス(こっちは20分間隔)を待つことにした。停留所には「本日無料」などとは出ていなかったので、先のバスの掲示で確認できたのはせめてものお慰みだろう。11:33発に乗り、目的地(三越に近い「本石町一丁目」)に着いたのは11:40過ぎだった。好天ではなかったが、荒天でもなかったので、メトロリンクを待たず、普通に歩いていればよかったような気もするが、ちゃんと乗れただけマシ(5年前の憂き目を思えば)というものである。

*まるごとミュージアムが、日本橋・京橋まつりと同日になってしまった、というのはよかったのかそうでなかったのかが悩ましい。日本橋に客を呼び込むことを考えると、この日ほどメトロリンクの真価が発揮される日はないと言ってもいい。(まるごとミュージアム用の無料バスは、東京駅→日本橋という設定にはなっていないので、お昼に日本橋をめざすには江戸バスしかなかった、ということになる。) COREDO室町がオープンして最初の日曜日ということも考え合わせると、まつり関係者と地元企業と中央区とでしっかり考えるべきだったのでは?と思えてならないのだ。

 大江戸活粋パレード「諸国往来パレード」の一つ、「仙臺すずめ踊り」(見ている分にはいいのだが)

 オープンして4日目。なお、テレビ取材が続くCOREDO室町(鰹節・お出汁の老舗にて)

 ランチビュッフェは上々、「円山応挙展」も(警備員の不逞さを除けば)上々、あとはまた江戸バスにでも乗れれば、という一日だったが、油断してはいけなかった。三井の裏手に出れば、「本石町一丁目」の次の「本石町三丁目」が近い、と見て、暗くなった街路を停留所を探しつつ歩くも、「ない!」。日銀通りと江戸通りの交差点(江戸バス右折ポイント)まで来てしまったら、17:17発のがあっさりと曲がっていってしまったのである。

 パレード時間帯の江戸バスは、「新日本橋駅」「室町二丁目」は通らないことになっていたので、その記憶がアダになった。すでに通常ルートに戻っていたのだから、COREDO室町に近い室町二丁目から乗ればよかったのである。

←メトロリンク日本橋のルート/江戸バス(北循環)のマップ(抜粋)

*2つのバス共通の停留所は4カ所あるが、名称が全く同じなのは「呉服橋」のみ。

 結局、その江戸バスに続くように現われたメトロリンクに辛うじて乗車し、「JR新日本橋駅」から「八重洲地下街入口」まで揺られることにした。11:08発には乗れなかったが、今度は乗れる。「八重洲通り西(ブリヂストン前)」17:48発の江戸バスに乗り換え、東京駅へ。途中、「八重洲地下街入口」に停車中のメトロリンクを追い越したのは、ほんの余興である。6時間半前は、あそこで見送っていたバスに今乗っている。筆者のバス運、果たして良いのか悪いのか? 苦笑いするしかなかった。(ちなみに17:17に江戸バスに乗れていたとすると、「八重洲通り西(ブリヂストン前)」には18:08、東京駅には18:13だった。とにかく大回りなのが江戸バスである。区外の人間にとっては何とも使い勝手がよろしくない。無料日以外はご縁がなさそうである。)

 

 


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